本日、13:25より皇子山中学校において、標記について研修及び講演を受講しました。
皇子山中学校は、“平成21・22年度文部科学省道徳教育実践研究事業”を受け、2年間研究・研修してまいりました。
今日の研究報告は
「自ら光り輝く生徒を求めて~心に響く道徳教育の実践~」
というテーマで行われ、まず13:25から14:15までは、「全校一斉道徳公開授業」であり、われわれ見学者は、好きに移動し、各学年の各クラスの授業を見ることができました。
今日のブログは、その道徳公開授業についてレポートしたいと思います。
・1年生
主題名:良心の目覚め
資料名:「銀色のシャープペンシル」
・2年生
主題名:責任ある判断
資料名:「お前のカワウソが淋しがっているぞ」
・3年生
主題名:思慮深い判断と責任
資料名:「アイツの進路選択」
・10、11組
生活単元:まあるい地球で(人類愛)
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私は、3年生の「アイツの進路選択」を集中して見学しました。
↑3学年のとあるクラスの風景
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【ストーリー】
幼なじみの真一と夏樹は、お互いに“恋心”を抱いています。
二学期に入って、“進路”のことが直近の課題となりました。
夏樹は、真一が「仲の良かった本間先輩が行っている北西工業高校に行こうかな」と考えているのを知っていました。
ですから、夏樹は自らも真一の希望している北西工業高校で情報科を希望し、コンピュータの勉強をしたいと考え、高校でも“真一と一緒にいたい”と考えました。
しかし、真一はそんな“恋”がいつまで続くのか懐疑的で、「本当に自分の行きたいのは本間先輩がいるからといった北西工業高校ではなくて、いままで得意科目であった理科をもっと伸ばしたい。いま明確に進路を決めなくても、普通科高校に入ってから決めてもいいのではないか?」と、“夏樹の気持ち”を知りながら、“自分の進路を優先”し水明高校の普通科に行くことを内心で決めました。
進路について夏樹に問われた真一は「水明高校に行きたい。」と打ち明けます。
夏樹は抵抗しますが、ある日夏樹の母から真一宅に電話が入ります。
「こんばんは、夏樹のことなんだけど、あのこ、急に志望校を水明に変えるって言い出したの。ずっと北西で決めていたのにね。理由を聞いても言わないのよ。」
という電話でした。
『“いくら好きだっていったって”、ふたりの関係の将来なんてわからない。』と真一は言いようのない不安と戸惑いを感じるのでした。
といった内容を、先生が朗読されました。
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そして、生徒たちの討議が始まります。
真一の進路選択
①一回目の希望調査で「北西工業高校」と書いたとき、どんな気持ちだったか。
②夏樹に「同じ高校に行くことで間違いないよね。」と言われたとき、どんな気持ちだったか。
③どんなことを考えて進路変更をしたのだろうか。
④進路変更をした夏樹に、どんな言葉をかけたらよいのだろう。
これらの①から④について話し合いがクラスで行われます。
最終的には、“自立⇔責任”という構図を見出すという授業手法ですが、面白いのはこの資料の最後にヨハン・ゴットリープ・フィヒテの名言がさりげなく登場していることです。
教師はその詩に触れません。
「尊敬ということがなければ、真の恋愛は成立しない。」
なんということでしょう!
この詩によれば、この資料の本当のストーリーは「真一は、夏樹の“純粋な愛”を受け取ることができなかった。よって”愛”ではなく“進路”を真剣になやんだ真一を鞭打つ」ということのようです。
授業を受けている誰もがその詩に気づかないまま、なかには夏樹の“無垢な愛”を非難する意見も出ます。
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この「アイツの進路選択」という話は、真一の“進路”について考察するように設定されていましたが、これは“異性”について考察する話のような気がして家に帰って調べてみました。するとそのような資料が出てきました。
高知県教育委員会ではこの「アイツの進路選択」を「恋愛について考える-正しい異性理解」とテーマを私が感じているような設定にされていました。
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教材は選ばねばならない、いや私は“愛”に非常に敏感な人間(笑っていただいても結構です)ですので、中3にふさわしいと一般的に考える“進路”問題よりも、この詩に忠実に“愛”を考察すべきではなかったか?と勝手に感じていました。
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私は、“愛”は何歳でも成立すると考えています。「子どもだから、まだはやい。」なんて、その思考はその人の実体験にのみ支えられています。
私なんて、幼稚園で恋した女の子を22歳まで好きでい続けたのですから・・・
子どもの恋愛が本当か否かなんて、誰にもわかりません。
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いったい、この感受性の強い年代の子どもたちに何を伝えたかったのか、いま改めて深く考えています。
この資料展開の場合、“道徳→進路” ではなく “道徳→愛” だったら納得したのですが・・・
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傷つきやすい42歳の感想でした。
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と、このテーマにこだわってレポートしましたが全般的な視点に戻しますと、どの教科においても道徳的考察は可能であり、「道徳が学校教育の中心である」といった講話もあり、新教育課程における学校教育に期待しています。
宮尾 孝三郎
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