平成3年4月30日、私は大津市際川に所在する大津駐屯地の「第2教育団第109教育大隊第315共通教育中隊」に、新隊員課程前期の教育訓練を受ける新隊員として入隊しました。
当時、古めかしい木造の建物にゲームセンターやクリーニング店が入り、体育館の代わりには湖岸に並ぶかまぼこ型の格納庫のような建物が使用されていました。
また、新隊員入隊式や修了式には「びわこ館(漢字の当て字だったのですが、美和誇館のような文字の並びだったと思います)」が使用されてましたが、これも古い建物でした。
戦技に関する教育訓練を受ける際には、湖岸沿いに並列する「戦闘訓練場」などを使用しましたが、戦闘訓練が終わると全身が泥まみれになり、また熱くて意識朦朧としておりましたので、湖岸にあるコンクリートのスロープをたどって、琵琶湖に浸かり、泥を落とし、体の熱を冷ました記憶があります。
その建物や構造物が何であったのか、教えてくれるのは、8月30日(日)まで、大津市歴史博物館で開催されている「戦争と市民展」で明らかになります。
本日は、終戦の日。戦争の記憶は、いつまでも後世に語り伝え、記録を申し送らねばなりません。平和を構築するには、悲劇を風化させない努力も重要なファクターであります。
本日も、この重要なファクターを多くの市民に伝える『大津海軍航空隊跡探訪【現地見学会】』が大津市歴史博物館の『企画展「戦争と市民」関連講座(第439回れきはく講座)』として開催されました。
この講座には定員50名のところ130名もの応募があったのだそうです。
私は、この講座にどのくらいお集まりか、興味がありましたので、集合場所を覗かせて頂きました。
集合場所は大津駐屯地前の「地主神社」境内。50名を超えるぐらいの方々がお集まりでした。
午前10時になり、歴史博物館職員の樋爪講師から、お集まりの皆さんに「軍都大津」について大まかな説明があった後に、集合場所の「神社」の説明があり、(私は講座に応募していませんでしたので盗み聞きになってしまいましたが)入隊後全く知らされなかった歴史を、いまになって知ることとなりました。
↑大津駐屯地の向かいにある神社
↑向かって左は「地主神社」
↑向かって右には「際川神社」が・・・
昭和12年4月、この地に「海軍予備航空団大津市部」が開設され、昭和16年5月には予科練卒業後の上級訓練校として引継ぎがなされます。そして昭和16年10月、鹿島航空隊大津分遣隊として暫定的に発足、昭和17年4月に「大津海軍航空隊」として正式に発足します。
その隊内に「隊内神社」を昭和19年9月に建立されたそうですが、昭和20年8月15日に戦争の終了を伝える「玉音放送」があり、すぐに米軍をはじめとする連合軍が上陸すると考え、昭和20年8月22日に「隊内神社」を現在のこの地に移したのだそうです。「隊内神社」=「際川神社」であり、「地元神社」と並ぶ現在の形になったのだそうです。
神社の左右には灯篭がありますが、その裏書には「大津海軍航空隊隊員一同」の文字が刻まれています。
↑この灯篭の裏書には・・・
↑「大津海軍航空隊隊員一同」の文字が・・・
私は平成3年4月30日から同年7月24日までの約3ヵ月と、平成9年3月23日から平成18年7月31日までの9年と4ヶ月、あわせて9年7ヶ月の時間をこの大津駐屯地で過ごしましたが、この「際川神社」について、一度も聞いたことがありませんでした。このように歴史の専門家が丹念に調べて初めてわかること・・・感激しました。
大津市歴史博物館は、まさに「大津の歴史」の専門家集団であります。今後ともその研究の深度を高めていただくことに、最大限の応援をさせて頂きたいと思っています。
宮尾 孝三郎
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