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2010年1月18日 (月)

1・17の続き

18日は、他の候補生と一緒に、長池演習場で戦闘訓練をしていました。

「神戸は大丈夫だろうか?」

陸曹候補生という身分は、ほとんど自分の時間がありません。テレビもなければ、新聞もありませんので、世の中の動きがほとんど分かりませんでした。唯一、朝、昼、夕食のときに隊員食堂にいきますので、その食堂内にあるテレビをチラ見することでわずかな情報を知るのみでした。

19日の朝になり、助教から「西宮まで、阪急電車が動くらしい。」と情報を受け、朝から教育隊の教官・助教ほか教育スタッフのみなさんが、私が神戸に入るための準備をしてくれました。

午前中、教育隊が準備してくれた市販の大型リュックサックにコンビニで購入したおにぎりを何10個も入れてくださり、ペットボトルの水やお茶を5本ほど、そして大久保駐屯地のある大久保駅のふたつ隣の小倉駅へ連れて行って頂き、個人商店の電気屋さんでラジオを購入すると、電池を1箱(何十本も電池が入っている)を「がんばりや!」の一言とともにリュックに入れてくれました。涙がこぼれました。

近鉄小倉駅で、区隊長が見送ってくれ、小倉駅の階段を登ろうとしますと、リュックの総重量50Kgは越えていたと思いますが、重さでふらつき、ホームにたどり着くまで悪戦苦闘しましたが、すれ違う皆さんが「神戸に行くの?頑張って!」と次々に声をかけてくれます。

近鉄電車に乗ると、私のようなこれから神戸に入ると思われるいでたちの方が、数名おられました。

乗り継いで、乗り継いで、ようやく阪急神戸線にたどり着きました。さて、神戸線に乗り込むと、私のようなこれから神戸の被災地に行くと思われる方々でいっぱいです。みんな口々に家族の話や友人の話などをしておられました。

いざ、電車が動き出すとみんな窓の外に注目します。いまから被災地に入る皆さんのそれぞれの想いがその行動に見て取れました。

阪急十三駅に入ってから、車窓からみえる風景は変化していきます。ブルーシートで屋根の防水を行っている最中の家が数件見えました。手付かずの崩壊した古い木造家屋も数件確認できました。

阪急西宮北口駅に近づくにつれ、外の被災状況は悪化していきました。そして、電車の中は会話がなくなり、みな目に涙を浮かべ、ただ、ただ、車窓を見つめておりました。

阪急西宮北口駅に到着すると、重い荷物を持った人々が、もみくちゃにされながら改札を目指します。

私はトイレに行きたくなり、駅構内のトイレを目指しましたが、トイレの入口の数段の階段から、糞尿が流れ出ている状況をみて、トイレはガマンすることにしました。

駅の南側には、マンションのような建物が確認できましたが、(記憶が定かでありませんが)たしか、5階と6階だったと記憶していますが、潰れていました。その下の道路には、機動隊員が相当数確認できました。

いざ、西宮から神戸方向に向け国道2号線を歩き始めました。同じ方向に進む50代の女性が私に話しかけてくれました。そしてその方と一緒に神戸を目指します。

私は、灘区の稗田小学校付近を目指し、その女性は新幹線新神戸駅付近の家を目指していました。

荷物が重く、その大型リュックに小さな車輪がついていたので、手で引きながら移動することにしましたが、道路がめくれあがっているような箇所が断続的にあり、移動はなかなか大変でした。

地震は、不思議です。国道上に電柱が倒れ、通行不能となっている箇所が続いたあと、500mぐらい、それほど被害が大きくないエリアがあります。その先には、また被害の大きな地域があり、といった感じで、同じ方向に移動する人々は、一喜一憂しながらでありました。

神戸市東灘区に入ると、交差点で右折しようとしていた消防車が「相模原消防」と書いてあるのに気づき、非常にビックリしました。神奈川県相模原市から神戸に来てくれた車両でした。

また、自衛隊車両が行き来していましたが、10師団(愛知県を中心とした北陸・東海地方の部隊)の車両が多く、災害派遣の規模が大きいことに驚きました。

神戸市東灘区の御影あたりで、私は衝撃を受けました。マンションか市営住宅か、記憶が定かでありませんが、崩壊したその建物に貼り紙がしてあります。「この中に、人がいます。」とても助けられるような隙間はありません。涙がこぼれました。

石屋川を越えて、灘区に入りました。

国道を移動しながら、南側の阪神電鉄の高架に目を向けると、電車が高架から下の道路上に落ちていました。六甲ボウルというボウリング場は、国道を塞ぐように潰れています。

六甲ボウルの近くの商店街は、空襲に遭った様に、焼け野原となっていました。

大石川を越えると、神戸にいた頃のわたしの生活圏です。火事はこの地域ではおきていないようでした。しかし、実家に近づくにつれ、見慣れた街が土色にしか見えない惨状に愕然としました。

しかし、遠目からでも実家が建っているのは確認できましたので、一緒にここまで歩いた女性の方に「実家は大丈夫なようです。一緒に来てくれませんか?」とお願いしたところ、お受けいただけました。

注:私は、第4陸曹教育隊から実家に出発する際、「被災地の状況を写真に納めてくるように」と指示を受けておりましたが、使い捨てカメラを被災地に向けることはできませんでした。ですから、このブログで紹介する写真は、後日兄が撮影したものになります。

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↑2階より下をブルーとオレンジのシートで囲った建物が実家。ブルーシートの箇所にあった壁は一部崩落していました。(兄1995.2.2撮影)

実家は、4階建ての賃貸住宅ですが、一階が私の実家であります。お向かいの家は新しいにも関わらず、倒壊しており、お隣の二階建ての文化住宅も倒壊していました。

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↑比較的新しいお向かいのお宅も、このとおり倒壊していました。(兄1995.2.3撮影)

しかし、実家に人気(ひとけ)があり、ドアを開けると、母親が中にいました。家の中はグチャグチャでしたが、同行してくれた女性の方と家に入りました。そして、家族の無事を確認し、ほっとしました。

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↑2階の賃貸部分の表玄関。このように、建ってはいるものの、あちこちが壊れていて、危ない状況でした。(兄1995.2.11撮影)

食べ物をいっぱい持って返ったのですが、19日にもなると、食料は親せきがくれたパンが実家にあり、逆に私がそれをいただくというようなあべこべの状況でありました。

一緒に神戸を目指し励ましながら歩いてきたその女性とは、私の実家で別れ、その方は引き続き新神戸駅近くを目指して歩いていかれました。

母の話では、18日の夜まで火災が神戸市内で発生しており、サイレンの音ばかりが一日中響いていたとのことでしたが、私が神戸入りした19日は、火事も鎮火し、前日に比べて静かになったとのことでありました。

家族は、児童公園内に乗り入れた自家用車で、震災のあった夜から寝泊りしていたそうです。後にエコノミークラス症候群で命を落とされた方が報道されますが、この時点ではその危険性はほとんど知られていませんでした。

思い出す努力をしだすと、次々に断片的ではありますが記憶がよみがえってきます。15年の月日が経ちましたが、震災で得た教訓は後世に語り継いでいかなくてはなりません。

私も、記録にほとんど残していなかったこの経験談を、15年の結節でブログに残すこととしました。

私のブログ記事には教訓じみた話はなく、どちらかといえば、当時のこころ模様を思い出したようなものでありますが、震災を風化させないように、気持ちを込めて書きました。

宮尾 孝三郎

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