« 子どもたちは、ちゃんとできます | トップページ | 1・17の続き »

2010年1月17日 (日)

1・17

平成7年1月17日午前5時46分、私はそのとき、陸上自衛隊大久保駐屯地(京都府宇治市)で生活していました。

第4陸曹教育隊に1月から陸曹候補生課程でお世話になっており、その日も営内班の2段ベッドの上段で就寝中でありました。(起床は午前6時30分だったと思います)

ゆれを感じたその瞬間、二段ベッドもロッカーも床の上を滑るように動き出しました。そして、水平だけではなく上下の揺れも感じだし、とにかくロッカーが倒れないように押さえることしかできませんでした。

ゆれがおさまったあと、営内班の同期生のひとりがヘッドホンを耳にし、ラジオを聞いていました。そして「神戸が大変らしい」と一言。

私は、それを聞くまで「このゆれだったら、関東は大変なことになっているのではないか」とまさか関西が震源地だとは想像できずにいました。

神戸、実家の家族や友達は大丈夫だろうか、と考えましたが、そのときはまだ余り深刻に考えることもなく、起床ラッパを待ちました。

起床時間になり、ラッパが鳴り、作業服に着替え、点呼場所に集合すると、当直陸曹が「大阪、神戸方向は地震で被害があったらしいので、点呼終了後、電話で異常の有無を確認後、当直まで報告するように」

そして、点呼終了後、公衆電話に並び、実家に電話すると電話がつながり母親が電話口に出てくれました。「大丈夫やから。みんな大丈夫やから。」ということでありました。

そして、当直に「実家は大丈夫といっていました。」と報告し、朝食の食堂に向かいました。すると食堂に置かれているテレビでどこかが火事になっている様子をヘリからの映像で映し出していました。『あれ、神戸が燃えているんとちゃう?』と感じましたが、それがどこかは分からず、とりあえず、時間に追われる自衛隊の日課の中で、とにかくいつものように飯をかき込み、食堂を出たところの公衆電話でもう一度、実家に電話してみましたが、電話は通じませんでした。

それでも、母の「大丈夫」の言葉がありましたので、8時30分(だったと思う)の課業開始まであまり心配はしていませんでした。

その後、課業開始。中隊長の座学があり、大教場で講話を聴いていると、突然助教(教育スタッフのこと)が教場に入ってきました。「中隊長、スンマセン。ちょっといいですか。」と中隊長の了解を得たあと「この中に、宮尾候補生、いるか!」

私が「はい、宮尾候補生!」と返事をすると「お前の実家が潰れたらしいから、確認の連絡をするように!」

その言葉を聞いた瞬間、涙がほほを伝わりました。

その後、教育隊長のご指導があり、午後4時ごろだったと思いますが、実家に向かうこととなりました。

私は自衛官という身分でありましたが、自衛隊は教育を受けている“学生”の身分がある間は、災害派遣に参加させてもらえません。このような前提で読んでいただければと思います。

区隊長が、私有車を出してくれ、助手席に私が乗り、高速道路に乗ろうとしましたが、緊急車両以外は進入が禁止されていました。そこで、一般道を走行するわけですが、大阪に入り、渋滞が目立ち始めました。

そして、箕面に着いたのが18日の午前0時過ぎ、171号線のその先の橋が損傷しているとのことでUターンを余儀なくされました。

Uターンし、神戸には入れないことを受入れ、近くのガソリンスタンドで、現在の状況を確認することとしました。

ガソリンスタンドの休憩室のテレビでは、海上自衛隊の護衛艦が災害派遣要請を受け、呉港から神戸港へ出航したということが報じられていました。

区隊長が、「もう、無理だ、引き返そう」と決断され、大久保駐屯地に帰ったのが午前4時半。

17日の地震発災の日は、こんな様子でありました。

明日は、19日にようやく神戸に帰った時のことを書きたいと思います。

宮尾 孝三郎

« 子どもたちは、ちゃんとできます | トップページ | 1・17の続き »

経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 子どもたちは、ちゃんとできます | トップページ | 1・17の続き »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フォト
無料ブログはココログ